
太平洋戦争終戦直後に太平洋に位置するアナタハン島で日本人による集団大量殺人事件が起きました。
32人の男が1人の女性をめぐって争奪戦になり殺し合いにまで発展します。
アナタハン島で起こった事件ですが、日本人の事件です。
もちろんこの1人の女性も日本人です。
今回はこの事件の裏側に迫ってみたいと思います。
無人島(アナタハン島)に行きついた経緯
まず、男32人と主人公の比嘉和子(1922~1972年)がどのようにしてこの島にたどり着いたのかを説明します。
比嘉和子は太平洋戦争末期の1944年に夫の転勤で事件が起こったアナタハン島(太平洋マリアナ諸島に位置する孤島)に移住します。

画像:Wikipedia
比嘉和子本人の画像です。
この島にはすでに同じ会社の所長である比嘉菊一郎(比嘉という苗字が同じなのは偶然です)が家族といっしょに住んでいたが、戦争が激化したため菊一郎の妻と娘は身の安全のために島を発ちました。
しばらくすると比嘉和子の夫が別の島にいる妹を迎えに行くために島を出ていったのが、そのまま音信不通になります。
この時点で島にいるのは比嘉和子と所長の比嘉菊一郎と原住民のカナカ人45人のみ(計47人)。
2人はやがて正式に婚姻していませんが、事実上の夫婦生活を始めました。
比嘉和子はこれから起こる事件はまったく想定していなかったと思います。
同じく1944年にアナタハン島を通りかかった日本の食糧補給船が空襲を受けて沈没してしまいます。
兵士や船員は海に投げ出され、31人がアナタハン島に泳ぎ着きました。
この時点で比嘉菊一郎を含め、男は32人。
男32人、女1人の共同生活が始まる
ジャングルの中で生きていくために33人は共同生活を始めます。
家畜や果物、時にはネズミやトカゲなどを食糧とし、水は捨ててあったドラム缶の中に雨水を入れてしのぎます。
米軍の攻撃におびえながらそれぞれが助け合って生きてきましたが、ささいな口論が絶えなくなります。
原因は和子でした。
衣服がボロボロになり木の皮を腰に巻いているだけの恰好は周りの男の本能を刺激します。
上半身は乳房むき出し状態。
32人の男の本能に火が付き、争奪戦までに発展します。
和子は男から求められると断れない性格だったため、それがますます事件をエスカレートさせてしまいます。
やがて日本が降伏をしたことで空襲がおさまり米軍から降伏を呼び掛けられますが、彼らは「これは米軍の罠だ、嘘に違いない」と不信感を持ちます。
空襲が来なくなり、「生」が保障されたが「性」の保障はなかった。
ここから悪い方向へ展開していきます。
32人の男は19人に減る
猛獣のような男からの視線に和子は身の危険を感じ、護身の目的で所長の比嘉菊一郎と結婚します。
しばらく身の安全が保障されたが、一部の男達が山の中でB29爆撃機の残骸を発見。
偶然にもそこでピストルを2丁発見してしまいます。ここから本格的な殺し合いが始まります。
ピストルを手にした男が和子を所長から奪い、逆にその男が所長に殺されるという事件が発生。
その後も「殺し合い」は続き、気づくと和子の夫は5人になりました。
しかし、その5人も全員殺されるという事態になり、残された男の間でも口論やケンカが続く。
32人いた男は最終的に19人になりました。
和子も殺人のターゲットとなる
このまま行くと皆殺しになるので、自分の身の危険を感じた男たちは話し合いをしました。
その結果、和子を殺せばいいという結論に至ります。
すべての争いの原因を作ってるのは和子なのだから、彼女を殺せば争いも無くなると。
その情報を聞いた和子は住んでいた小屋を出ていきジャングルの中を逃げ回ります。
そして1950年6月28日、アナタハン島沖に停泊していたアメリカ海軍の船が、木に登って必死に布を振っている和子を発見。
彼女は保護され日本へ帰国し、事件は発覚しました。
悪女というレッテルを貼られた和子の最期
この殺人事件は世界中で話題となり、和子は「アナタハンの女王蜂」と呼ばれるようになります。
もちろん悪い意味であり、彼女は性で男を虜にしたと言われるようになります。
その後、彼女本人が出演する映画が作られたりし、一時的にブームになります。
そのブームも一瞬で終わり、さらには収入がなくなりガソリンスタンドやストリップ劇場で仕事をするようになったそうです。
心身ともに疲れ果てた和子は故郷の沖縄へ戻り、子持ちの男性と結婚をします。
夫婦でたこ焼き店を営み、脳腫瘍のため49歳で生涯を閉じました。
最後に子供たちに残した言葉は「愛がたりなくてごめん」だったといいます。