
かつてメキシコで栄えたアステカ文明では生きたまま心臓をえぐりとられる生贄の儀式がありました。
神の怒りを鎮めるために行われていたこの儀式はいったい何のために、そしてどのような内容だったのか。
今回のテーマは生贄の儀式です。
アステカ文明の生贄の儀式とは?
1428年から1521年までメキシコで栄えたアステカ文明では、ウィツィロポチトリという神に対して様々なお供え物を捧げていました。(ウィツィロポチトリとは当時信仰の対象になっていた太陽神です)
野菜や果物、牛や馬や魚、基本的には食べ物でしたが、この文明では人間の心臓までもが供え物の対象になっていたといいます。
古代の日本でも生贄の儀式はありましたが、アステカ文明の場合犠牲になった人数のケタが違います。
およそ100万人以上犠牲になったと言われています。
なぜ生贄の儀式が行われていたかというと、アステカ文明では近い未来に太陽の寿命が尽きて暗黒の世界になると信じられていました。
太陽の死を少しでも遠ざけるために人間が生贄になり、自然災害を起こす神の怒りを鎮めようとしたのです。
ですが、この儀式は現代では考えられないほど残酷なものでした。
なぜなら、生きたまま心臓をえぐり出されていたからです。

画像:Wikipedia
アステカ生贄の儀式の画。ナイフで心臓を取られているのが見てわかります。
生贄に選ばれた人はまず、神殿の祭壇に寝かされて神官により石のナイフで胸を切り裂かれ手づかみで心臓を取られていました。
生贄獲得のための戦争で、捕虜になった人も強引に使われたといいます。
生贄になることが最大の名誉だったので、自ら志願した人もいたそうです。
他にはこんな恐ろしい儀式もありました。
これは豊作の儀式ですが、生きたままの生贄の体の皮を丁寧に裂き、司祭がその皮を着て踊っていたといいます。
さらには生贄を火の中に放り込んで焼き殺すという儀式も存在しました。
今現代では考えられないくらい残酷な儀式ですが、当時は神に死を捧げるのは名誉なことでした。
※2012年にメキシコシティの地下5メートルから大量の人骨が発見されましたが、当時神殿があった場所だったので、これが生贄の人骨だったと考えられています。
日本にも生贄の風習はあったのか
実はこの生贄の風習は日本にも存在していて、別名人身御供(ひとみごくう)といいます。
一番有名なのは邪馬台国の卑弥呼が死んだときに100人の女性が生贄にされたという歴史です。
この日本に伝わる人身御供を紹介します。
人身御供の中に人間を生き埋めにする人柱(ひとばしら)という風習があります。
人柱とは工事現場の事故で犠牲になった労働者のことを指しますが、実は元々は完成したお城や堤防や橋などが崩壊しないことを神に祈願するために人間が生き埋めにされ、この風習を人柱といいます。
有名なのが心霊スポットでもある北海道の「常紋トンネル(じょうもんトンネル)」です。
神に対する祈願ではありませんが、建設中に指示に従わなかった作業員をスコップで殴り殺したり、さらには過酷な労働により栄養失調などで100人以上が命を落とし、亡くなった作業員を現場に埋めたという話が言い伝えられています。(近所の住民により多数の人骨が発見されました)
トンネルが開通してからトンネル内で事故が相次ぎ、これが亡くなった人の怨念?と考えられ近くに慰霊碑が建てられます。

画像:Wikipedia
こちらが殉職者の慰霊碑です。
この生贄風習は古代から行われていました。権力者の葬儀の際に人を墓に生き埋めにしていましたが、あまりにもこの儀式が残酷だったため生贄の変わりに埋める「埴輪:はにわ」が登場しました。
これ以降、埴輪を死者と共に埋葬するようになります。
現代ではこんな人柱が発見されています。
1923年(大正12年)関東大震災で被害に遭った江戸城(現在の皇居)から16体の人骨が発見されました。
ほとんどの遺体が手を組み合わせていて、頭には古銭が乗せられていたといいます。
これは江戸城が建てられた16世紀の生贄、つまり人柱だったことが判明しました。
このような人身御供の言い伝えは全国各地に残されています。
有名なのが「静岡県の三股淵人身御供」。
三股淵という川と川が合流する場所があるのですが、この川には大蛇が住み着いているという言い伝えがあり、その大蛇の怒りを鎮めるために少女が生贄になりました。
生贄に選ばれた少女は15~16才の処女であり、そのまま川に投げ込またり、または入水という形で命を落としたといいます。
現在では考えられない生贄の儀式ですが、日本にも存在していたと考えると、とても切ないです。