
世界で初めて核兵器を使用したアメリカが1952年にさらに強力な水素爆弾の実験を成功させます。
その中には現代の文明を崩壊しかねない危険な核実験もありました。
それは1962年から半年間続いた「ドミニク作戦」です。
今回のテーマは恐ろしい核兵器です。
ドミニク作戦とは何?
ドミニク作戦とは1962年からアメリカが行った106回にわたる核実験です。
米ソ冷戦の真っ最中にソ連がアメリカの核実験停止命令に従わなかったためアメリカが対抗して行った起爆実験なのですが、その内容はすさまじいものでした。
通常核実験は空中や水中で行われますが、このドミニク作戦では大気圏外、つまり宇宙空間で核を爆発させるというものです。

画像:Wikipedia
ドミニク作戦Ⅰの実験画像。
地球から距離が近い宇宙空間で核を起爆させると何が起こるかというと、強力な磁気が発生して地球の磁気を乱します。すると電波障害が発生し地上の電子機器に悪影響を及ぼしコンピューターをダウンさせ通信障害を起こし、さらには信号機などにも影響を与えるため交通を混乱させます。
太平洋で行われたこの実験の結果、高度数100キロ圏内を飛んでいた人工衛星が多数破壊されハワイ近辺が数時間にわたって停電になる事態になりました。
爆発で発生した電磁パレスの影響によって人口のオーロラが発生したとの記録もあります。

画像:Wikipedia
ドミニク作戦で発生したオーロラの画像。
使用された核兵器は中型のタイプだったのと、当時のハワイはインフラが今ほど発展していなかったので被害は少なかったそうですが、これがもしさらに強力な威力をもつ核だとしたら被害の規模は拡大されていたということです。
最終的にこの実験は放射性物質が地球に降り注ぐなど、あまりにも危険だったためアメリカ政府によって禁止命令が出されました。
ソ連で開発されていた史上最強の核兵器【ツァーリ・ボンバ】
冷戦時代にソ連で開発されていた「ツァーリ・ボンバ」という史上最強の水素爆弾を紹介します。
当時のソ連の首相ニキータ・フシチョフの命令で「水爆の父」とされていたアンドレイ・サハロフ博士によって開発されました。作った理由は言うまでもなくアメリカに軍事力を見せつけるためです。
最初は100メガトンの威力を想定していましたが、実験でソ連領内に放射能などの被害が及ばぬよう半分の50メガトンに抑えました。
それでも威力は広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の3300倍です。

画像:Wikipedia
ツァーリ・ボンバの原寸大の模型です。
1961年に1回だけ爆発実験が行われます。実験場所はヨーロッパの北に位置するロシア領ノヴァヤゼムリャです。
重量27トン、全長8メートル、直径2メートルという巨大な爆弾の運搬用に爆撃機を使用したのですが、ツァーリ・ボンバがあまりにも大きすぎて機体からはみ出していました。
そして午前11時、高度1万メートルからパラシュートを取り付けたツァーリ・ボンバを投下して上空4000メートルのところで爆発させます。
その時の衝撃波は地球を3周したとも言われていて、核爆発は1000キロ離れたところでも確認されました。
火傷を負う熱線の範囲は58キロメートル(広島の原爆は3.5キロメートル)、きのこ雲の高さは60キロメートル、放射能の汚染は少なかったそうです。
このように大国による核実験は放射能汚染の危険性などの理由で国際世論が反対していたため、1963年アメリカ、ソ連、イギリスが「部分的核実験禁止条約」を結び、核実験は地下のみと限定されました。
日本でも核開発が行われていた
あまり知られていませんが太平洋戦争時に日本でも核開発の研究が行われていました。
それが「二号研究」と「F研究」です。
1943年に陸軍からの依頼を受けた理化学研究所の仁科芳雄(にしな よしお)博士を中心として始まったのが「二号研究」です。二号は仁科博士の名前からとったものです。
もう一方で海軍からの依頼を受け物理学者である京都帝国大学の荒勝文策(あらかつ ぶんさく)教授を中心として始まったプロジェクトが「F研究」です。Fは「Fission(核分裂)」の頭文字です。
これらの2つのプロジェクトにより核開発が進められましたが、核物質であるウランの入手方法で難航してしまいました。
ウランは天然ウランにわずか0.7%しか含まれていないため、手に入れるのが困難。そのため研究チームは1944年から朝鮮半島、満洲、モンゴルでウランの採掘を行いましたが成果は得られず、中国の闇市場で130グラムのウランを購入します。
次に太平洋戦争時の同盟国であるナチスドイツ支配下のチェコのウラン鉱山に目を付けて日本へ輸入する計画をたてましたが、ドイツが連合国に敗戦してしまいウラン確保はできませんでした。
結局手に入れたウランは少量。原子爆弾1個すら作れない状況になりました。
そんな中ウランの濃縮もうまくいかず、やがて研究施設が空襲に遭遇し日本の核開発は失敗に終わります。
「二号研究」に費やされた研究費は当時の金額で2000万、アメリカの核開発プロジェクト「マンハッタン計画」で使われた経費はおよそ100億円。
アメリカの500分の1に過ぎませんでした。
このように核開発を進めていた日本ですが、もし歴史が違う方向に動いていたら日本が原爆の加害国になっていたかもしれません。