
カンボジアといえば世界遺産のアンコールワット、仏像、神像など、神秘的なイメージを持たれる方が多いと思いますが、かつてカンボジアには国民の4割を処刑した独裁政権が存在していました。
その独裁者は「ポルポト」という人です。
ナチスのヒトラーに匹敵するくらい残酷な政権であり、今でも国内では地面を掘ると人骨が多数出てくるほどです。
今回のテーマはカンボジアの独裁者ポルポトです。
ポルポト政権が樹立するまでの経緯
1970年代、カンボジアのお隣の国ベトナムではベトナム戦争の真っ最中でした。
ベトナム戦争とは国の統一を争った「共産主義派:北ベトナム」対「民主主義派:南ベトナム」との同民族の戦いです。
北ベトナムを支援していたのは当時のソ連です。(ソ連といえば共産主義を世界に広めようとしていた国です)
南ベトナムはアメリカが支援していました。
つまり、アメリカとソ連の冷戦による代理戦争です。
北ベトナムは南北統一をかかげ南ベトナム解放民族戦線、いわゆる「ベトコン」と呼ばれる組織を立ち上げます。
このベトコンの軍隊は南ベトナムに滞在していました。
北ベトナムはこのベトコンに軍事物資(武器など)を北から南ベトナムへ運ぶために運ぶ車が通れるようにするために道が作られます。
これの長い道をホーチミンルートといいます。

画像:RakutenBLOG いろいろ考えたこと
ホーチミンルートの地図です。上の北ベトナムから下の南ベトナムへ物資が輸送されていました。
ですが、このホーチミンルートはカンボジアの領内に入っていました。(画像参照)
当時のカンボジアの国家元首であったシアヌーク殿下は国内を通って南のベトコンに物資が運ばれることを認め、さらに北ベトナム軍が追われてカンボジア領内に逃げ込むことも認めました。(シアヌークは共産主義は嫌いだけど北ベトナムを敵にまわしたくないのが理由です。のちに彼は北ベトナムを支援。)
北ベトナムと戦っていたアメリカはこのシアヌークの方針が気に入らなく(敵である北ベトナムの兵士がカンボジアに逃げ込むため)、カンボジア国内でクーデーターを起こさせます。
つまりシアヌーク政権を崩壊させて南ベトナムよりの政権にしたかったのです。
クーデーターにより政権が変わり、次の首相に選ばれたのはロン・ノルという人です。
ロン・ノル政権はアメリカと共同で北ベトナム軍、南のベトコンを攻撃します。
祖国から追い出されたシアヌークは中国の北京に逃げ込み中国政府の支援を受けて反ロン・ノル政権の戦線を結成しました。
これがカンプチア民族統一戦線です。
復活したシアヌーク軍はカンボジアの農民から人気が高く、国内で勢力を伸ばしていくわけですが、この時に支援したのが
ポルポトが指導する共産党です。

画像:Wikipedia
ポルポト本人の画像です。
これによりロン=ノル政府軍 対 シハヌークの旧政府軍(ポルポトが支援)のカンボジア内戦が勃発します。
ポルポト軍は主に農村地区で戦いました。
ここでいったん整理します。
どことどこが対立しているのか?
次にアメリカはカンボジア領内にある北ベトナム軍の基地を空爆するわけですが、多くの一般人までが犠牲になり100万人の難民が首都プノンペンに流れ込みました。
これに怒ったカンボジアの農民たちが反米のゲリラへと転身します。
1975年4月17日、カンプチア民族統一戦線が首都プノンペンを攻撃しロン・ノル政権は崩壊しました。
カンプチア民族統一戦線はポルポト共産党が支援する軍隊なので、事実上ポルポトが政権を握ったようなものです。
シアヌークが率いるカンプチア民族統一戦線が勝利をしてポルポトの地獄の悪政が始まります。
カンボジア内戦は終わったが悲劇が・・・
首都プノンペンが没落し、逃げることなく留まったロン・ノル政権の兵士や政府関係者は全員殺されました。
内戦が終わり喜んでいた国民はポルポトの軍隊を歓迎しましたが、200万人ほどいた国民はプノンペンから追い出されてしまいます。
上記に国民100万人の難民が首都プノンペンに逃げ込んだと書きましたが、これが理由でした。
ポルポトいわく、「自分はロン・ノル政府軍と戦ったのに国民は逃げただけ」
これが許せなかったのです。
逆に内戦時にポルポトが支配していた農村部の国民だけが国民としての扱いをされます。
それ以外の国民は必要ないとの考えを持っていたポルポトは虐殺計画を進めていき、歴史上有名な独裁者となりました。
シアヌーク旧政権のシアヌーク殿下はどうなったっかというと、王宮の中に閉じ込められてしまい、国際社会から抹殺されてしまいます。
国民の半分を処刑した恐怖政治が始まる
政権を握ったポルポトは原始共産制という政治を実地し、個人がお金儲けできる資本主義を徹底的に排除します。
どんな悪政だったかというと、まず宗教は禁止、なので寺院などは壊されます。
紙幣、学校や病院も禁止、さらには恋愛も禁止で結婚相手は国家が決めるというものでした。
国民は全員農場や建築関係の仕事を強制され、食事は共同で行います。
子供は5~6才までに親から奪われ国家によって教育されます。
もちろんこの政策に抗議したものは即死刑です。
次に有名なポルポトの粛清(しゅくせい:殺すこと)を紹介します。
彼が敵と見なしたのは知識人です。
中学校を出ている人、教師をしていた人、字が書ける人、メガネをしてる人、本が読める人、この人達は次々と処刑されていきます。
海外に留学している学生なども粛清の対象になり、「国があなたたちを必要としているので帰国してください」という政府の要望を伝え、国のために帰国した留学生は空港で捕まえられて全員殺されました。
1975年から78年まで3年間の犠牲者は170万人と言われています。

画像:Wikipedia
ポルポトによって虐殺された人の遺骨です。
知識人は頭で考えて行動するため、自分の独裁政治にとっては邪魔だったそうです。
国民に勉強とかは必要なく、ただ肉体労働で生産を増やせばいい、これがポルポトの考え方でした。
重い肉体労働を強制させられた国民は、食糧はわずかしか支給されず、バタバタと死んでいきます。
勉強が禁止なので自分の職業の専門知識を得ることができません。
これによって建築物は自然崩壊、農業も生産性がガタ落ちします。
絶望的な飢饉が広がりました。
ポルポト政権はその後どうなったか
カンボジアはクメール王朝の後にベトナムから何回も侵略されていました。
ベトナムがカンボジアをフランスからの要請で支配していたこともあり、ポルポトはこの過去を利用して国民を反ベトナム思考に変えようとします。
不満ばかりの国民の意識や考え方を統一しようとしたのです。
それを知ったベトナム軍は1978年にカンボジアに侵攻します。
ベトナム軍優勢で進んで行き、わずか2週間でポルポト政権は崩壊しました。(ベトナム軍の死者は5万人ほど)
食べ物もろくになく、飢えに苦しんでる国民に戦う力はなく、政権を守ろうともしなかったということです。
ポルポトはどうなったかというと、仲間を連れてジャングルに逃げ込み、中国からの支援で新政権に対しゲリラ活動をします。
しかし、反乱から20年経った1997年、ポルポトは逮捕され終身刑を言い渡された翌年に病死します。
その後カンボジアは国連の介入により、国民による選挙が行われ無事に民主主義へと変わっていきました。
ポルポトの遺体は古タイヤといっしょに燃やされたそうです。

画像:ピリカ・アフリカ・ブリタニカ?英国留学珍遊記
ポルポトの墓です。お線香やペットボトルが置いてあるのがわかります。
ですが、これがかつての権力者の墓だと考えると、なんとも複雑な気持ちになります。