
1940年(昭和15年)日本はドイツ、イタリアと日独伊三国同盟をむすび、アメリカの真珠湾を攻撃することによって太平洋戦争に参戦しました。
約6年間にわたる交戦を繰り広げましたが、1945年8月6日に広島市に、8月9日に長崎市に原爆が投下され1945年8月15日に日本は降伏しました。
いろいろな意見があるこの太平洋戦争ですが、あまり知られていない隠された3つの真実を公開します。
太平洋戦争の終結は8月15日ではなかった
日本が降伏をしたのは8月15日ですが、実は日本の戦争は終わっていませんでした。
相手はソ連です。
1945年8月14日に日本はポツダム宣言(アメリカ、ソ連、中国などの連合国側が日本に対して無条件で降伏することを示した宣言)を受託しましたが、ソ連はそれを違う解釈をして8月17日に8300人の兵力で北海道の千島列島に攻め込みました。
これが占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)です。ソ連は北海道の占領を企んでいました。

参照:Wikipedia
北海道千島列島のマップです。一番右上の「Shumshu」が占守島です。
日本がポツダム宣言に調印したのが1945年9月2日ですが、ソ連の言い分は「日本が調印するまで戦争状態にある」つまり、8月17日にソ連軍が侵攻したときはまだポツダム宣言に調印していなかった。
これを理由に千島列島に侵攻しました。
日本の陸軍は戦争停止命令によって武装解除されていましたが、ソ連軍上陸の報告を受けるとすぐに迎撃命令をくだしました。
21日間戦闘が続きましたが、ソ連軍の行動を知ったアメリカの仲介により集結しました。
死者数は日本兵1000人、ソ連兵1500人と言われています。(諸説あり)
導入された日本兵のほうがはるかに少なかったので、日本軍が最後まで優勢だった事がうかがえます。
もしアメリカの交渉が入らず戦闘が続いて日本が負けていたら、今ごろ北海道は「北海道民主主義人民共和国」になっていたかもしれません。
そう思うと恐ろしいです・・・。
戦艦大和は意図的に沈められた
1945年4月7日、日本が誇る最大の軍艦「戦艦大和」がアメリカの空軍の波状攻撃により沖縄近海で沈みました。
ですが、この戦艦大和は日本の政策によってわざと沈められたという説があります。つまり戦艦大和は政治的に不要なものだったということです。
まず、大和が沖縄に特攻した理由を書きます。
この時日本は沖縄戦が始まっていて日本兵と米兵の戦闘状態でした。
そこで沖縄の海岸線まで大和を進ませて大砲として使用すると形勢は一気に逆転するという考え方でした。
つまり大和が海辺から米兵がいるエリアに大砲を打ち込む作戦です。
そしてこの大和特攻作戦は、政治的な意図により作戦が実行されたという説があります。

参照:Wikipedia
当時、日本は資源、兵力、などが底をつき挽回不可能な状態でした。
政府はいち早く和平交渉(終戦)に進みたかったが、その邪魔となるのが戦艦大和でした。
この時は戦争を続けるべきとの意見を持つ抗戦派と、戦争は終わらせるべきと考える和平派の攻防が繰り広げられており、もし強大な破壊力を持つ戦艦大和を残したまま和平交渉に進めると、抗戦派の勢いは衰えず、和平交渉がスムーズに進まなくなる。
つまり戦艦大和が健在なのになぜ戦争を続けないのか!と、抗戦派は考えるわけです。
戦争を終結させたかった政府は国民に終戦を納得して受け入れさせる必要があったため、日本海軍は全滅する必要がありました。
大和が沈没すれば国民も納得ができるわけです。
「あの日本が誇る大和が沈没したのなら日本に勝ち目はない、降伏するべきだ」
このように国民の考え方を誘導する必要がありました。
こうした点を考えると大和は政治的な判断によって沖縄戦に出撃させられたと考えることができます。(軍幹部が戦後に言っていたとのことです)
太平洋戦争の戦没者は6割が餓死だった
太平洋戦争で亡くなった軍人は230万人と言われていますが、実はこの60%が戦死ではなく餓死だったという説があります。
ですが、終戦前に多くの資料を紛失したため公式な記録は残っていません。
専門家によると終戦1年前の死因はほとんどが餓死が多かったとのこと。
最後の1年間は食糧の補給が断たれたり、マラリアなどの病死、この死因が半数以上を占めるといいます。
有名なのはインパール作戦というビルマ(ミャンマー)からインドのインパール(イギリス軍の占領地)を数週間で到着して攻撃を仕掛けるというもの。
しかし、インパールにたどり着けたのはゼロ人でした。死者は3万人と言われていてほぼ全員が餓死、病死だったと言われています。
現代の日本人の考え方だと、軍人さんは名誉ある戦死だったと考えてしまいがちですが、餓死だったというのは意外な事実だと思います。